CHALLENGE PLAZA

「たくさんの人に支えられてきた」創業社長・大島のルーツとプラザクリエイトの誕生

どんな社長も、最初の一歩はチャレンジだったはず。現在社員数1000人を上回るプラザクリエイトも、1984年に創業した時は大島ひとりからのスタートでした。
今回の記事は、これまであまり語られることがなかった、大島のルーツについて。価値観の根本を築いた幼少期からプラザクリエイト創設までの軌跡を振り返ります。

大島 康広(おおしま やすひろ)
1984年、大学在学中に現在のプラザクリエイトの前身となる中部写真を創業。 2年後にはDPEチェーン「パレットプラザ」の1号店を開店し、1988年にプラザクリエイトを創業。趣味は昔から大好きな写真や旅行。最近ではコロナ禍で新たな趣味を開拓すべく、船舶免許を取得。休みの日にはボートを楽しんでいる。

※掲載されている情報は、公開日2022年3月9日時点のものとなります。

実家が地域のプラザだった。人が集まる場所で過ごした幼少期

実家は名古屋市にあるお寺でした。善福寺という名前で、昔はお寺の名前が町名にもなっていたそうです。町の運営や問題解決の中枢として機能し、祖父の声かけによってたくさんの人がお寺に集まっていた記憶があります。今思えば、私はあの頃から、人が集まる“プラザ”の中にいたのかもしれません。

お寺では冠婚葬祭が執り行われます。幼い頃から当たり前のように人の死を身近に感じていたことから、独特の死生観が養われたように思います。ある時、仲良くしてくれていたお兄ちゃんが20代前半で亡くなりました。近所に住んでいる、優しい警察官の方でした。人は死んでしまうものであると、強く感じた出来事です。そんなこともあって、人生の一瞬を切り取って思い出を蓄積する『写真』というものに惹かれていったのは、ごく自然なことだったのかもしれません。

カメラとの出会いでアイデンティティを手に

カメラを初めて買ってもらったのは幼稚園に通っていた頃です。OlympusのPENという、ハーフサイズモデルでした。その頃はおもちゃのような感覚で親しんでいましたね。小学校に進学してからは、周囲と自分を比べてしまうことが多くありました。自分にはあまり取り柄がないと感じているような、自信のない子だったと思います。

中学に入学したころ、父親が二台目のカメラを買ってくれました。NikonのF2という最上位モデル。当時はコンパクトカメラも普及していない時代ですから、学生で一眼レフカメラを持っている人は少なく、周囲からは珍しがられましたね。今思えばよく許されていたなぁと思いますが、通学カバンの中には常にカメラを入れていました。学校で人を撮り始めてからは、生徒たちも先生たちも、カメラのまわりに集まってくれました。

そこから人生の風向きが変わっていったように思います。小学生までは目立った取り柄がありませんでしたが、カメラが自分のアイデンティティやコミュニティをつくってくれました。友人に頼まれて写真を撮ったり、職員室に入り浸ってカメラ好きな先生方と写真談義に花を咲かせたりする日々。仲の良かった理科の先生と英語の先生とは、写真部までつくりました。先生方もかなり乗り気で、空いている部屋を暗室にして、みんなで写真を現像していましたね。

そんな経験から、写真には人と人とをつなぐ力があると信じるようになりました。ひとたびカメラを向ければ、自然と人の輪ができる。撮ったものを現像すれば、「見せて~!」「この写真いいね~!」などと会話や笑顔が広がる。写真には、人と人の豊かなつながりをつくるパワーがあることを体感したんです。

お寺の息子として育った。跡継ぎを予感しながらも、カメラマンを志す

写真を続けていくと、より高性能なレンズが欲しくなりますよね。でも、そのときは中学生ですから当然お金はありません。そこで先生たちのススメにより、写真コンテストに応募するようになりました。そしたらなんと、バンバン当選したんですよ。

当時の写真コンテストは大人向けのものがほとんど。それにカメラを持っている子どもは多くありません。中学生が学校生活の中で撮ったありのままの子どもたちの写真が好評だったのでしょう。賞金でレンズを手に入れて、新しいコンテストに応募するといったことを繰り返していました。

賞金で写真集を買うこともありました。衝撃的だったのは、篠山紀信さんが撮った山口百恵さんの写真集です。篠山紀信さんといえば有名な写真家さんですが、実はお寺の息子なんです。私と同じ生い立ちでも、カメラマンをやっている人がいることを知り、お寺をつぐ運命を薄々感じていた私が、職業に対する夢を抱くようになったのです。

父親は寺の住職でしたが、私が子どもの頃から「将来は必ずしも継ぐ必要はないよ」と話していました。それもあり、カメラマンを志しながら、写真を撮り続けていました。高校に入ってからはカメラ店でアルバイトをし、店主のオヤジさんにカメラやお店運営、仕入れのことを教えてもらいました。商売っておもしろいなぁとワクワクしました。

しかし、大学進学を控えた高校3年生の冬、父親から寺を継ぐための修行にいくよう勧められたのです。一気に現実に引き戻された気分でした。京都のお寺で1カ月修行をし、その後、大学に通い始めましたが、寺を継ぐと決まった以上、勉強する理由を見つけられなくて。授業なんてほとんど聞いていませんでしたね。

レンズを求めて、通信販売から学生起業へ

カメラマンの夢は途絶えたものの、写真を撮ることは変わらずに続けていました。やっぱりいいレンズが欲しくて、勉強そっちのけで始めたのが、カメラ用品の通信販売です。電話線を引き、ワープロで書いた営業DMを教育機関の写真部宛てに送っていました。量販店よりも少し安い価格を提示したところ、次々に注文が入って。フィルムなどの消耗品はもちろん、カメラを購入してくださるお客様もいました。

とある女子校に商品をお届けに行ったときのことでした。担当の先生から、学生証に使う撮影の相談を受けたんです。現代のようにデジタルではありませんから、一人何枚も撮影して、一枚一枚仕上げるという仕事でした。そしてその仕事を機に、学校行事の撮影や卒業アルバムの作成なども任されるようになりました。アルバムに関しては、当時流行していたファッション雑誌を参考にレイアウトをしたところ、とても喜んでいただけたのです。徐々に評判が広まり、高校や専門学校からの仕事依頼が急増。20代序盤にして、ものすごく忙しい日々を過ごさせてもらっていましたね。

収入が上がってきたある日、税務署からお呼びがかかりました。その時に初めて、自分が会社を作らなければならない状況にあると自覚したんです。21歳で、お寺の敷地内にて学生起業をしました。それが、現在のプラザクリエイトの前身となる株式会社中部写真なんです。

起業してはじめに取り掛かったのは、撮影スタジオ作りです。2000万円もの資金が必要だったのですが、若くて所帯もない私にお金を貸してくれる銀行はなかなか見つからず、困り果てていました。すると、父親が住職の衣をきて、銀行へ一緒に出向いてくれたんです。「こいつにお金を貸してやってくれないか。土地を担保にするから」と頭を下げてくれて。本心では寺を継いで欲しいと思っていたはずなのに、大胆な協力をしてくれたことに感激しましたね。父は直接的に応援をしてくれるタイプではないのですが、要所要所で助言をくれたり、助けてくれる、ありがたい存在でした。

パレットプラザの前身となったプリントショップの誕生

撮影スタジオ設立の後は、プリントショップを作ることにしました。それまでは現像を外注していましたが、仕上がりがイメージと違ったり、印刷に1〜2日程度かかってしまったりするので、自社で機械を所有しようと考えたんです。プリントの機械は1600万円ほど。またして銀行からお金を借りるハードルにぶつかりました。それに加え、機械を販売するメーカー側からも渋い顔をされてしまいました。

そんな中、富士フイルムのとある担当さんが、私のやろうとしていることに興味を持ってくださったんです。「面白いことしてるね」と、機械を売ってくださることになって。お金の問題も、いろんな方に相談する中で、1600万円を分割にして借りる方法が見つかりました。若かった私に、快く手を差し伸べてくださった方々との出会いや支えによって、事業をスタートすることができたのです。

フランチャイズ化のきっかけは、とある不動産オーナーとの出会い

無事にオープンしたプリントショップには「フジカラープラザ」という名前をつけました。けれどその1年後、名前を変えることにします。きっかけは、ある方から「プリントショップを息子にやらせてくれないか」とご相談を受けたことでした。その方は近隣の地域で不動産業を営んでおり、大学を卒業して地元に帰ってくる息子さんに、新たなビジネスに挑戦させたいと考えていたんです。なんていい親父さんなんだろうと感動し、そのお店をフランチャイズチェーン化することにしました。

新たな仕組みを作る中で、お店の名前も変えることにしました。フランチャイズとは、お互いの足らずを補う素晴らしいビジネスの仕組みであり、お互いが持っているものを掛け合わせて共に歩むこと。パートナーとなる相手の持っているリソースに、パレットを作るーーそんな意味をこめて「パレットプラザ」と名付けました。絵の具のパレットのように様々な色合いがあるように、ひとりひとりのらしさと家族に幸せに大切に寄り添えるお店でありたいと願いを込めました。

それに伴い翌年の1988年、会社名を「中部写真」から「プラザクリエイト」へ変更しました。人々が思いおもいに集まる広場(プラザ)を創造(クリエイト)したいという思いを込めたのです。こうして、今のプラザクリエイトは誕生しました。

ちなみに「プラザクリエイト」という社名をつけたことは、私の社長人生の中で1番誇らしい仕事だと思っています。この社名にしたからこそ、事業に広がりが生まれたし、これからだって会社は様々な可能性に満ちていると信じることができます。

====後編に続く====
「みんなの広場」をつくる。時代を切り開くプラザクリエイトが選んだ未来

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