CHALLENGE PLAZA

「みんなの広場」をつくる。時代を切り開くプラザクリエイトが選んだ未来

時代の変化と共に、変わることを恐れず進んできたプラザクリエイト。コロナを機にますます変化が加速することが予想される時代を前に、今回の記事ではパレットプラザ設立から現在に至るまでの歴史の中、会社の大きな転換期となった出来事を、大島の視点で語ります。

==前編記事はコチラ==
「たくさんの人に支えられてきた」創業社長・大島のルーツとプラザクリエイトの誕生
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300人のフランチャイズオーナーとともに歩む決意

パレットプラザをフランチャイズビジネスとして運用し始めてから、店舗数は瞬く間に拡大しました。当時、たった1,380円で高品質な写真が撮れる「写ルンです」の普及やストロボの搭載によって、写真プリントの需要が爆発的に広がったんです。全店舗に富士フイルムのミニラボを設置し、需要に応えられるようにしました。

オープン準備のため、私自身が現場(お店)が大好きな事もあり、店舗の立上げ作業をしにいく日も少なくありませんでした。毎週のようにお店がオープンしていましたが、忙しく動き回っていると事業が急拡大をしているという実感はほとんど持っていなかったんです。

そんな中、目が覚めるようなイベントがありました。パレットプラザの店舗数が300を超えたことを記念し、ホテルでイベントを開いたときのことです。当日、ご挨拶のために壇上に上がると、何百人という人たちの顔がこちらを見ていて。初めて視覚的に、300店舗に関わる人たちの全体像を見たんです。その規模の大きさに、挨拶の言葉もうまく出てこないほどに圧倒されました。

中には奥さんや赤ちゃんをお連れになっているオーナーさんもいました。会場でわっと泣き出す赤ちゃんの声に、「集まったオーナーさんは300人だけど、その背後には何千人もの家族がいるんだ」とハッとしました。この方々の明日を、私は保証できるのか……? そんなことを考えると、震えが止まりませんでした。

300店舗達成までの日々は、ただひたすら前だけをみて、立ち止まることなく、店舗拡大に徹してきました。しかしイベントを機に、改めて自分が追うべき責任と、「社長」という立場におかれているということを自覚したのです。

そこでこの会社を上場させようと強く決意しました。この先、自分だけでは解決できないことが起こるかもしれない。会社が末長く続いていくように、会社の在り方を考えなくてはならないと思ったのです。

カフェ事業への挑戦で考えた、プラザクリエイトらしさってなんだろう?

上場の準備をしながら、パレットプラザの店舗数拡大を目指しました。次のゴールは500店舗。そこでボトルネックとなったのが、出店場所の開発でした。パレットの標準店舗は15坪。いいお店の必須条件である、人通りがあって、間口がきれいで、賃料が安い15坪を探すものの、なかなかぴったりな場所で契約が進まなくて。当時のパレットプラザは、全国に着実に店舗を増やしつつも、商業施設や大家さんから「家賃はいくらでもいいから、ぜひうちに入ってほしい!」とラブコールを送っていただけるようなブランドにはまだ成長していなかったのです。

そこで好立地だが30~50坪の物件があった場合、パレットプラザと併設してカフェをつくることにしました。それが「カフェ・ド・クリエ」です。ヨーロッパからインスピレーションを受け、店内には写真や絵画を飾りました。フィルム現像やプリントを待つお客様が、新たな感性に触れたり、アートやコーヒーを通じて生まれるコミュニケーションを楽しめる場所にしたいと思ったのです。始めたカフェ事業は思った以上に伸び、そのうちカフェ・ド・クリエ単体でも出店拡大をするようになりました。

カフェ事業が拡大した先で葛藤したのは、「そこにプラザらしさはあるんだろうか?」ということでした。立ち上げ当初は、パレットプラザの隣りにあることで独自の価値を発揮できていたカフェ・ド・クリエでしたが、カフェ単体で出店を続けた結果、プラザクリエイトらしさが薄れてしまった気がしたんですね。他にもカフェ事業を行う企業はたくさんある中で、うちがやる意義はあるのだろうか? そんな自問自答を繰り返した末、2001年の事業のポートフォリオを見直すタイミングで、カフェ・ド・クリエを売却しました。

この経験から学んだのは、いくらビジネスが好調でも、そこにプラザクリエイトらしさがなければ意味がないということでした。自分自身も組織も、情熱をもって事業に向き合うためには、プラザクリエイトのアイデンティティが宿った事業でなければならないと痛感したのです。

「フィルムがなくなったらどうするの?」孫正義氏の言葉

上場前のタイミングでは、ソフトバンクの孫社長と親しくさせていただいていました。兄と弟のような関係で、よく一緒に講演していました。あるとき、一緒にお昼を食べていると、ふと、こんな問いをかけられたんです。

「もし、フィルムがなくなったらどうするの?」

20代だった私は、そんなことあり得るわけがないと思っていました。当時、大手メーカーが出していたデジタルカメラもヒットせずに終わっていたし、「写ルンです」のような安価で高品質な写真が撮れる商品は、そうそう出てこないだろうと考えていたからです。そして「フィルムがなくなることなんてないですよ。写真のことは自分が誰よりも理解しているんだから。」と、得意げに答えました。

すると孫さんは「そうかもしれないね。けど、もしフィルムが必要なくなったらどうするのか?その時のことは考えておくべきだと思うよ。」と、やんわり伝えてくれたのです。

この言葉を機に、フィルム全盛期が過ぎたあとの未来について考えるようになりました。ずっと同じ状況が続かないのだとしたら、変化を敏感に捉え、チャンスに変えて行くことが大事だと気づいたのです。

模索の先にたどり着いた、携帯電話事業

時代の最先端に触れるため、海外へ出向くようになりました。特にシリコンバレーへは頻繁に足を運びました。そしてアメリカの会社を買収したり、デジタル印画紙のプロダクト開発に挑戦したりと、新たな事業の可能性を探りました。

失敗続きの時期もありましたが、ときには成功へと繋がることもありました。例えば、1996年にイスラエルの企業であるフォトネットに出資すると同時にアジア全体の販売を開始し、PCやiモードのケータイ上で電子写真を見せるサービスの開発に成功した一件です。今でこそ、写真はインターネットのあらゆる場所で使われていますが、当時は携帯電話の黎明期。ケータイやPCで写真や画像を気軽に公開できる仕組みは、あらゆるコンテンツの可能性を開放し、ものすごいビジネスチャンスとなりました。

海外企業と共に新たな可能性を探ることは、フィルムにしがみついていては描けなかった未来でしたね。こうして振り返ると、孫さんの言葉はプラザクリエイトの大きなターニングポイントとなりました。

2000年代に入ると、携帯電話で写真を撮る文化が生まれました。今では耳にすることも少なくなりましたが「カメラ付きケータイ」や「写メール」なんていう言葉もできて、写真と携帯は切っても切れない関係になりました。それ以降の携帯電話にはカメラ機能が必ず搭載されて、もはやネットとカメラが主役となり、電話がオマケの機能に感じるくらいです。その衝撃的な変化に、時代の変わり目をはっきりと感じました。

そうか、この先はどんなシーンでも必ずポケットに入っている「携帯電話」が、写真の在り方、生活を変えるのかもしれない。日々の思い出や、大切な人とのコミュニケーションがすべて、「携帯電話」に集約されていくのだとしたら、写真や思い出という領域でビジネスをしてきたプラザクリエイトは、どう変わるべきだろう……? そう考え抜いた末、携帯電話の販売に着手したのです。

最初は全国に店舗を持っていたパレットプラザのブランドを生かして、写真プリントショップと携帯電話を両方取り扱う業態からスタートしました。その後は高まる携帯電話需要に応えるべく、ソフトバンクショップやワイモバイルショップの看板を掲げ、店舗を拡大。今や生活に欠かせないスマートフォンを通じ、地域や世代を超えてデジタルの絆を結んできました。今後は、地域のDX化やITリテラシー向上に貢献すると共に、5Gの普及でさらに広がる通信事業の可能性を追求していきたいですね。

バトンを上手に渡せるように、自分自身を変えた

こうして歩んできて、私も50代の中盤を超えました。4、5年ほど前から、この会社が末長く続いていくためには、50代のうちに次の世代へとバトンを渡すべきではないだろうかと考えるようになりました。

しかし、長年創業社長をやらせていただいた結果、私のリーダーシップが強く出すぎている節がありました。プラザクリエイトの意思=大島の意思と捉えられがちとなり、嬉しいことではある半面、企業としての広がりがなくなってしまうことを危惧していたのです。

そこで取り組んだのは、組織のあり方を見直すことでした。これまでプラザクリエイトにはいなかったタイプの方々を、マネジメント層などに登用。同時に、プラザクリエイトのビジョンを再定義しました。

プラザクリエイトは創業以来、時代の変化に応じて手段を増やしながら、人と人をつなぐことで生まれる感動や楽しさを大切にしてきた会社。これは「プラザクリエイト」という社名に込めた想いそのものであり、今までもこれからもずっと変わらない私たちの価値観です。そんな決意を改めて言語化すべく、2020年8月「みんなの広場をつくる」という新ビジョンを発表しました。

体制を変えて新たにビジョンを掲げたことで、私自身も、会社も変化していったように思います。創業社長である私があえて一歩引いた立場をとることで、いい意味で組織が活発になる部分があるんですよね。外から新しい風を吹き込んでくれる人も増えました。

それから、DIYクラフトキットの「つくるんです®」や、Zoom共同企画のパーソナル・ミーティング・ボックス「One-Bo」など、新たなブランドも生まれています。創業30年を迎えて次のステップにいくときには、こういう時期が必要なのだと思います。

アフターコロナはプラザクリエイトの追い風になる

不確定事項の多いご時世、これからは、やったもん勝ちの時代が来ると思っています。チャレンジした人だけが前進し、立ち止まっている人は最前線から離れていくのではないでしょうか。コロナ前の世の中における強いインフラを持っている会社だとしても、そのインフラが通用しなくなる可能性もあります。

これまでいろんな事業にチャレンジしてきたプラザクリエイトは、時に素早く動きすぎ、時代の先を行き過ぎた挑戦をしてしまうこともありました。けれど、アフターコロナでは、その機敏さが強みとなって発揮されると信じています。

プラザクリエイトは、「みんなの広場」を企画し、つくっていく会社です。これまでは私自身のやりたいことを率先してやってきましたが、これからは社員のみなさんがやりたいことをやっていくべきだと思っていて。会社の看板を活用して、チャレンジしてみたいことにどんどん突き進んでいただけると嬉しいですし、そういった素地を作っていくつもりです。日々新しいチャレンジが生まれ続ける、これからのプラザクリエイトに、ぜひご期待ください!